当院の麻酔・疼痛緩和科
麻酔とは薬物を用いて患者の神経系やその他の機能を可逆的に調整することと定義されています。またその目的は患者の肉体的・精神的苦痛を除くことで、手術・処置・検査を安全に遂行することにあります。
麻酔の方法には大きく2つあって、全身麻酔と局所麻酔です。
全身麻酔とバランス麻酔
全身麻酔の3大要素と言われているのが、意識の消失、筋弛緩、鎮痛です。
全身麻酔を目的に広く用いられている吸入麻酔薬は、意識の消失効果は比較的強めですが鎮痛効果はほとんどありません。よって吸入麻酔薬単独で麻酔を管理する場合、痛みが強い処置を行う際には弱い鎮痛効果を補うために麻酔濃度を上げるしか方法がありません。吸入麻酔薬には比較的強い循環抑制効果(血圧低下効果)がありますので、濃度を上げれば血圧は下がります。血圧低下は全身の主要臓器の機能低下を招き、麻酔による死亡率を上げることになります。
吸入麻酔の苦手な分野を他の薬が補うことで吸入麻酔薬濃度を下げることが可能になります。これがバランス麻酔の考え方です。
意識の消失は吸入麻酔薬に、筋弛緩は筋弛緩薬に、鎮痛は麻酔用鎮痛薬に任せれば、吸入麻酔薬の濃度を上げる必要はありません。吸入麻酔薬の濃度を下げることにより、麻酔リスクの高い動物においてもより安全な麻酔管理が可能になります。
当院ではフェンタニルという薬を麻酔用鎮痛剤として採用しています。フェンタニルには強力な鎮痛効果があり、その鎮痛効果はモルヒネのおよそ100倍と言われています。
局所麻酔
局所麻酔とは意識の低下を伴わずに痛みをコントロールする麻酔方法で、その方法には局所浸潤麻酔、硬膜外麻酔、神経ブロックなどがあります。局所浸潤麻酔は小切開などの小さな手術に用いられ、硬膜外麻酔や神経ブロックなどは目的の領域の痛みをコントロールする際に用いられます。局所麻酔では麻酔用鎮痛薬よりもさらに強力に痛みを抑えることが可能です。副作用を回避して効果的に硬膜外麻酔や神経ブロックを行うにはやや特殊な知識と技術が必要になります。
膀胱結石の手術前に仙尾椎硬膜外麻酔(局所麻酔)を行っています。
硬膜外麻酔によって手術の痛みが減るので、より低濃度の吸入麻酔薬での麻酔管理が可能になります。
麻酔用鎮痛剤と硬膜外麻酔の併用によって吸入麻酔薬の使用量が減少するだけでなく、術後の痛みも減って回復も早くなります。
当院では、動物の状態や必要な処置によって麻酔薬や麻酔方法を使い分けています。高齢で状態が悪い動物であっても動物の健康状態を評価したうえで麻酔のプログラムを考えて、可能であれば麻酔をかけて手術しています。
麻酔のご説明をしている時に、よく動物のご家族から「麻酔かけたら痛くないんじゃないの?」との質問を受けます。「麻酔」という概念がやや難しいところですが、上記のように吸入麻酔薬だけでは痛みはほぼ抑えられないとお話しています。
分かりやすいたとえ話をしてみます。
吸入麻酔薬の主な作用は意識の消失ですから睡眠導入薬のような薬だと考えて下さい。実際には異なる薬ですがイメージは大体あっていると思います。痛みを普段の生活で分かりやすいように騒音に例えます。
あなたは仕事で疲れ切って帰ってきました。もう疲れた。シャワーも浴びないでいいしご飯も要らないから今すぐに寝たいと思ったとします。でもあろうことか外では道路工事が行われていて騒音がすごくてすぐには眠れそうにありません。そこであなたは睡眠導入薬を飲んでみます。やっと眠れる。。。スヤスヤとなったと思ったらまた外の道路工事の音が聞こえてきてあなたは起きてしましました。もう嫌だ、何とかして眠りにつきたいと考えたあなたは睡眠導入薬を更に飲んでみます。これでやっと眠れる。。。と思ったら外ではさらに大きな音がしてあなたはまた起きてしまいました。よし、もっともっと睡眠導入薬を飲んでみよう、そうすれば眠れるかもしれない。
これって危険だと思いませんか?
吸入麻酔薬の意識の消失効果とはこういうことです。決して騒音が聞こえなくなっているわけではなく、眠っているから騒音に気が付いてないだけなのです。
どれだけ大きな騒音であっても目を覚まさないほどの睡眠導入薬を飲んだらどうなるでしょうか?危険なことはわかりますよね。
ではどうすれば眠れるでしょうか?簡単です。
防音工事をしてしまえばいいんです。防音工事をすれば寝室は静かになってあなたはきっとスヤスヤと眠れるでしょう。これが麻酔用鎮痛薬の効果です。麻酔用鎮痛薬を吸入麻酔薬に併用することで痛みを感じにくくなって吸入麻酔薬の濃度が減らせます。結果、麻酔リスクは下がります。
では家の周りをいっそコンクリートで囲ってしまったらどうでしょうか?日の光も一切入って来なくなりますが、防音工事よりもさらに騒音は聞こえなくなると思います。これなら眠れますよね。これが局所麻酔です。吸入麻酔薬に麻酔用鎮痛薬と局所麻酔薬を併用すればさらに痛みは感じにくくなります。吸入麻酔薬の濃度はさらに下げることが可能になって麻酔リスクはもっと下がります。
吸入麻酔薬と麻酔用鎮痛薬、局所麻酔薬のイメージは掴めたでしょうか?
残念ながら絶対安全な麻酔というものはありませんが、麻酔リスクを少しでも下げるためには、麻酔用鎮痛薬や局所麻酔薬の使用は不可欠と考えています。
当院では、レボブピバカインという薬を局所麻酔薬として採用しています。
レボブピバカインは、一般的に使われているロピバカインやブピバカインよりも心毒性が弱いと言われています。
動物の状態把握(ASA-PS分類)
麻酔リスクを下げるためには、動物の状態の把握も必要です。
以下に米国麻酔科学会が定めた麻酔前の患者さんの評価基準(ASA-PS分類)を動物用にアレンジしたものを載せます。
Class1:臓器疾患のない正常な動物
Class2:軽度の全身疾患を持つ動物
Class3:活動を制限する重度な全身性疾患に罹患しているが、まったく動けなくなるほどの状態ではない動物
Class4:活動できない全身性疾患に罹患していて、常に生命が脅かされている動物
Class5:手術の実施に関わらず24時間生存することが期待できない瀕死の動物
去勢・不妊手術などの健康な動物に麻酔をかける場合を想定しましょう。
元気で食欲もある。見た目何も問題がないとするとClass1でいいかもしれません。
でも術前検査で肝臓の数値が基準値を超えていたらどうでしょうか?
活動を制限する重度な全身性疾患に罹患しているかどうかを評価して、それほどでもないと判断されたらその動物はClass2になります。
ちなみにASA分類1-2の動物では麻酔関連死は0.05-0.33%で発生し、ASA分類3-5では1.33-4.77%で発生すると報告されています。Class3からは麻酔リスクが上がるということですね。
麻酔は絶対に安全だと言えないないなら麻酔はかけたくないと動物のご家族から言われることがあります。本当にそれでいいのでしょうか?
麻酔以外にも私たちは生活の中でリスクを負って日々過ごしています。調査によると国内で人が1年間に交通事故にあう確率は大体0.5%と報告されています。
一方ASA分類1-2の動物では麻酔関連死は0.05-0.33%と報告されています。交通事故に合うから外出しないという考え方があってもいいかもしれませんが、部屋の中で一生を暮らすことを考えれば外出した方が豊かな人生が送れるはずです。同様にそれが本当に必要であるならば麻酔をかけて手術・処置をしたほうが将来動物とそのご家族は今よりも幸せな生活を送ることが出来るようになるかもしれません。麻酔をかけるにあたっての心配や不安な気持ちはよくわかります。私たちは麻酔に関しても日々研鑽し知識や技術の蓄積をし特別なトレーニングを積んでいます。それは麻酔の事故率を0ゼロにするためであり、動物のご家族の不安な気持ちを少しでも軽くするためでもあります。
安全な麻酔薬は存在しない・安全な麻酔方法も存在しない・存在するのは安全な麻酔科医だけであるという言葉があります。
この麻酔薬を使っておけば大丈夫というわけでもなく、吸入麻酔に麻酔鎮痛薬や局所麻酔薬を併用すれば大丈夫というわけでもありません。麻酔前から麻酔後まで常に動物の状態を評価し状況に合った適切な麻酔を行える麻酔医だけが麻酔事故率0ゼロを目指せるのだと考えています。
当院の獣医師はVSJ College 麻酔科コースを修了し、
最終試験でHigh Distinction(95点以上)の評価を頂いています。